安藤組時代
慶應義塾高校に入学、同校では体育会拳闘部の主将となったが、16歳の時、本格的に暴力団構成員になります。
慶應義塾高等学校除籍後は神戸市立須磨高等学校や逗子開成高等学校など6つの高等学校を転々とし、安藤組組員だった時期に保善高校定時制課程に入学、中央大学法学部通信教育課程中退しています。
若い時期はブラディー・ナオのリングネームで地下ボクシング活動もしており、海外を転戦していた時期もありました。
ハンブルクでは悪役プロレスラーとしてリングに登場し、力道山から「いつでも安藤組に頼みに行くから、ヤクザ辞めてレスリングやれ」と勧められたエピソードも残っています。
日本航空時代
神田のYMCAのホテル学校を卒業後、1961年1月に23歳で日本航空に入社し客室乗務員として国内線や国際線に乗務しました。
パーサーまで出世しますが、理不尽な要求をする乗客とトラブルになり殴ってしまったことをきっかけに、前科3犯(当時)で執行猶予中であることや暴力団組員であることが露見し、1965年1月に退社に追い込まれてしまいました。
小金井一家時代
1964年に安藤組が解散し、日本航空を退社した後は、新宿の暴力団の小金井一家にヘッドハンティングされ、同時にキックボクシング中継の解説者、ライブハウス経営、プロモーター、レストラン経営、競馬予想屋などの職を転々としました。
作家
1981年にヤクザから足を洗いますが、それまでの安部いますさんの前科は暴行傷害、賭博、麻薬、青少年保護条例違反など日本国内だけで合計14犯、また国外でも複数回の服役を経験し、国外での前科は3犯、国内と国外での刑務所生活は通算8年間に及んでいました。
1987年、刑務所服役中の体験を書いた この連載がまとめられ、『塀の中の懲りない面々』として文藝春秋より出版、『塀の中の懲りない面々』はベストセラーとなり映画化され、以後人気作家としての地位を築きます。
ちなみに日本で刑務所のことを「塀の中」と表現するようになったのは、この著作の影響といわれています。
2019年9月2日、急性肺炎で死去されました。
安部譲二さんのご冥福をお祈りいたします。
–芸能