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京マチ子の死去を悲しむ石井ふく子
京マチ子さんの死去に対し舞台演出 家の石井ふく子さんは下記のコメン
トをされました。
石井ふく子氏、京マチ子さん死去悲しむ「あんな素敵な大スターもう出てこない」
女優の京マチ子さん(本名・矢野元子=やの・もとこ)が12日午後0時18分に心不全のため死去した。
95歳だった。大阪市出身。14日に東宝が発表した。
生前の本人の遺志により、石井ふく子氏(92)ら数名の友人の立ち会いのもと、この日密葬が執り行なわれた。
石井氏によると、数年前に京さん自身が手配した、大好きだったハワイの墓に納骨する。
京さんは1924年3月25日生まれ。「羅生門」「雨月物語」など数々の映画に出演したほか、石井氏演出の舞台作品「喜劇離婚」(80、85年)「大家族」(84年)「夕やけ小やけでまだ日は暮れぬ」(90、02年)にも出演した。
最後の舞台出演は「女たちの忠臣蔵」(06年9月)の瑤泉院役だった。
京さんと同じマンションの別部屋に住んでいた石井氏は東宝を通じてコメントを発表。「あんなに素敵な大スターはもう出ていらっしゃらないと思います。
心の美しい本当に清らかな方でした。寂しいです」と悼んだ。
京マチ子の経歴
京マチ子(きょう まちこ) ・本名 矢野 元子(やの もとこ) ・生年月日 1924年3月25日 ・没年月日 2019年5月12日 ・出身地 大阪府大阪市 ・職業 女優 ・ジャンル
映画・テレビドラマ・舞台
来歴
1936年(昭和11年)、大阪松竹少女歌劇団(OSSK)に入団。娘役スターとして活躍。1949年(昭和24年)に大映に入社、女優デビューした。後輩の若尾文子、山本富士子と共に大映の看板女優として大活躍した。
160cmと当時としては大柄であり、官能的な肉体美を武器に数々の名作に出演した。
溝口健二監督作品『雨月物語』(1953年)、黒澤明監督作品『羅生門』(1950年)、衣笠貞之助監督作品『地獄門』(1953年)など、海外の映画祭で主演作が次々と受賞し「グランプリ女優」と呼ばれる。
1971年(昭和46年)の大映倒産以降はテレビドラマと舞台に活動の場を移し、『犬神家の一族』などで活躍の幅を広げた。
80歳を過ぎても2006年頃まで舞台などで活動を続けていた。
2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の3位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター女優」では第7位になった。
私生活
一人っ子として出生したものの、5歳のときに父が蒸発により生別、母と祖母の手で成長した経緯を持つ。
大映社長永田雅一との恋愛関係が憶測された時期もあったが、デビュー以来今日まで独身を通す。
1965年(昭和40年)には、日本で初めての「億ション」、コープオリンピア(東京・表参道)を購入して話題となった。
2014年1月には池畑慎之介のブログに登場した他、2017年6月にも仲代達矢が近況について「元気です」と伝えていた。
2019年(令和元年)5月12日、心不全のため95歳で逝去。
受賞・受章歴
1950年(昭和25年):第5回毎日映画コンクール・主演女優賞 『羅生門』、『偽れる盛装』 1957年(昭和32年):第14回Jussi賞(フィンランド)・主演女優賞 『地獄門』 1964年(昭和39年):第38回キネマ旬報賞・主演女優賞 『甘い汗』 1964年(昭和39年):第19回毎日映画コンクール・主演女優賞 『甘い汗』 1987年(昭和62年):菊田一夫演劇賞大賞 1987年(昭和62年):紫綬褒章 1994年(平成6年):勲四等宝冠章 1995年(平成7年):第5回日本映画批評家大賞・ゴールデン・グローリー賞 1995年(平成7年):第18回日本アカデミー賞・会長特別賞
2017年(平成29年):第40回日本アカデミー賞・会長功労賞
京マチ子の功績
「羅生門」はベネチア映画祭で日本で初めてのグランプリを受賞し、「雨月物語」もベネチア映画祭で銀獅子賞、「地獄門」はカンヌ映画祭でグランプを受賞し、「グランプリ女優」とも言われた。
京マチ子さんは世界で活躍された 女優で後進へのお手本となる素晴
らしい方でした。
京マチ子さんのご冥福をお祈りしま
す。
–芸能