— 増山誠(日本維新の会 兵庫県議会議員) (@masuyama_makoto) October 10, 2019
地理
中央区の南西部、旧生田区域中央部に位置し、東・北・西は下山手通、東~南は北長狭通に接します。
中央区西部の市街地中寄り、花隈城のあった辺りで、神戸港の発展に伴い高級料亭が立ち並び花街として有名になりました。
飲食店・集合住宅が立ち並ぶ商業地域です。
地名の由来
花熊・鼻熊・華熊とも書き、「往昔は土東崕を噛み」といわれ、海に面した小高い丘で、台地の端(ハナ)の一段と高いところ(クマ)からついたという説がある一方、神をクマというところから神内(くまうち)に対し神社領のはずれという意味だという説もあります(西摂大観)。
花熊の地名は南北朝時代から見え、貞和2年(1346年)4月日付佐藤性妙軍忠書によれば足利方に属していた陸奥国出身の佐藤性妙子息行清らが建武3年(1336年)湊川の戦いの折「摂州天王寺・阿倍野・湊河・花熊・生田森・摩耶山」で奮戦したとあります。
平清盛が祀ったという兵庫七弁天の一つ花隈弁天があったが、花熊城を築く際に生田神社に移し、天明年間宇治川河口の弁天浜に移したといわれています。
戦国時代に織田信長方の城として花熊城が築かれ、天正7年(1579年)12月信長に叛いた荒木村重が入城し、本願寺派の拠点のひとつとして池田恒興ら信長方の攻囲軍と戦闘、天正8年(1580年)本願寺と信長の和議が成立して同城は破却されました。
町内の福徳寺は建久年間(1190年~1198年)に九条関白兼実により建立、厭求上人により開基されたと伝えられ、当初平野にあったが、天正年間(1573年~1593年)に花熊に移ったと社伝にあり、住民も一緒に移り住み戦いで荒れた村を開拓したという伝説があります。
池田家文書に伝わる花熊城付近図(岡山大学蔵)は築城の折の町割りと見られており、城の西側に塀に囲まれた東西40間・南北95間の一区画がありその内部が4町に区切られ「花熊町」と記入されていました。
–その他