https://headlines.yahoo.co.jp/ 引用
吉田清治さんは1980年代に軍の 命令により朝鮮で若い女性を慰安婦 を強制連行したと証言を数多く行い
出版物を出した人です。
その証言はほぼ嘘と創作であったが 朝日新聞が頻繁に記事にした為に日
韓外交問題の原因となりました。
1995年に吉田清治さんはこの証言
が虚偽であった事を認めています。
2014年に朝日新聞も記事を取り下
げ謝罪してます。
吉田清治さんとはどのような人物なの
か紹介しましょう。
目次
吉田清治とは
吉田清治さんの経歴は頻繁に内容が 変わった為、今たに謎が多く残って
います。
新聞では1983年段階で70歳と報道されており、生年月日は1913年10月15日としている。
また、本人の著作では本籍地を山口県と自称していたが、実際には福岡県芦屋町西浜であるという。
門司市立商業学校(現・福岡県立門司大翔館高等学校)の昭和6年度卒業生名簿に、吉田清治の本名とされる「吉田雄兎」の名があるが、(1931年の時点で既に)「死亡」と記されていた。
2014年8月5日、朝日新聞が吉田証言にもとづく過去に報道を誤報と認めた後、同年8月28日付けの読売新聞は、2014年時点で60歳代の吉田の長男(朝鮮人の養子とは別人物。吉田の実子。
以下、同人物)によると、1977年の吉田の著書『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社刊)執筆の際、出版社とのやりとりの中で本名「雄兎(ゆうと)」ではなく、ペンネーム「清治」を使うこととなった、また著書出版により「これで家計が楽になる」と語ったのを記憶している、などと報じている。
吉田は自著の虚偽を指摘された後も韓国での謝罪行脚や朝日新聞での証言を続けていたが、1995年に「自分の役目は終わった」として著書が自身の創作であったことを認めた。
1996年(平成8年)5月2・9日付の週刊新潮インタビューで吉田は以下のように語った。
まあ、本に真実を書いても何の利益もない。
関係者に迷惑をかけてはまずいから、カムフラージュした部分もある。
事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやることじゃありませんか。
チグハグな部分があってもしようがない。-週刊新潮1996年5月2/9号
と語り、自らの証言を創作(フィクション)を含むものであることをあらためて発言した。
吉田清治さんは生活の為に嘘の証言 をした事になりますが死ぬまでに創 作部分を修正しなかった為に信頼 出来る証拠としては扱われなくなっ
ています。
吉田清治の謝罪碑が復活
https://headlines.yahoo.co.jp 引用
吉田清治さんの謝罪碑が現在はどの
ようになっているのか紹介します。
韓国・天安市に「望郷の丘」という国立墓地がある。
朝鮮半島から海外に渡って帰国を果たせぬまま亡くなった人たちの墓地で、1976年10月にまず213体を収めて開園。現在は1万体以上が安置され、「安葬申請」はいまも受け付けられている。
パンフレットには「日帝強占期に、本人の意志によらず強制動員された海外同胞たちの帰郷の念を叶える場所」と示され、言ってみれば「徴用工」の墓地だ。徴用工訴訟はさらに拡大していく様相を呈しているが、そのうち韓国がこの墓地を象徴的な場所として持ち出すかもしれない。そしてここにもう一つ、反日の原点ともいえる石碑がある。
あの吉田清治氏の「謝罪碑」である。
だが2年前、この「謝罪碑」は、奥茂治なる人物によって改変された。元の石板の上に短く3行、「慰霊碑 日本国 福岡県・吉田雄兎」(原文はハングル) と刻んだ石板を貼りつけたのだ。
「雄兎」は吉田氏の本名である。
奥氏は、吉田氏の長男・英治氏の依頼を受け、石板を張り替えて帰国した。
その後、韓国警察の出頭命令に応じ渡韓して逮捕され、裁判になった。
これは度々メディアで報じられたから、あるいは記憶にある人も多いかもしれない。
そして2018年1月に懲役6カ月・執行猶予2年の判決が下る。
一時控訴したが、取り下げて判決が確定、2018年2月に帰国した。
それでは、その後「謝罪碑」はどうなったか。
吉田清治氏の「謝罪碑」は復活していたのである。
予想通りと言うべきか。吉田清治氏の証言が虚偽とわかろうが、朝日新聞が記事18本を撤回して誤りを認めようが、韓国ではまったく関係ないのだ。また、朝鮮半島で強制徴用が行われたのは1944年9月からだが、それもまったく無視である。
韓国では依然として「吉田清治」は生きているのである。
https://headlines.yahoo.co.jp 引用
吉田清治さんの虚偽により今だに日 本と韓国の間で慰安婦問題は解決し
ないままになっています。
吉田清治の虚偽証言の影響
吉田清治さんの虚偽証言により大き な問題に発展しましたがその後、 2015年に日韓の合意により慰安
婦問題は解決した形になりました。
当時の両国の外務大臣の発表という 形で合意は公表されましたが、韓国 ではまだ未解決として認識された
ままになっています。
–その他