日本新聞、NHKスペシャル破滅への道と戦前最大の右派メディアが話題に!かくて”自由”は死せり! | サイネタ

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8月9日、朝のNHKニュースにて昭和初期に発行され、戦前、最大の右派メディアとも呼ばれた日刊紙、「日本新聞」の紙面、およそ10年間分がほぼ完全な形で残されていたと紹介されました。

8月12日(月)午後10:00-からNHKスペシャルで詳細は放送予定になっています。

この日本新聞にしても映画『ひろしま』もそうだけど、戦後74年経ってもまだまだ知らないことばかり。特にこの新聞は戦争への道に深く関わっていたようで興味深い。 #おはよう日本 pic.twitter.com/QXEPDHnIf0

— ミスターK (@arapanman) August 8, 2019

日本新聞、10年間分がほぼ完全な形で見つかる!の反応

戦前の右派新聞「日本新聞」が見つかったとNHKニュース。

大正デモクラシーを攻撃し、軍部台頭、戦争へと国民世論を導いた。自由主義は赤化主義だ、警戒せよと説いた新聞。

いままた国民主権を定めた憲法を標的に、自由と権利を侵す挑戦が強まってる。こんな逆流に負けるわけにいかないッス。#NHK pic.twitter.com/5r7oLg14xY

— カクサン部長 (@kakusanbuchoo) August 8, 2019

“日本は、昭和の初めから急速に国家主義的な風潮が広がったとされていますが、日本新聞を詳しく分析することで当時の言論や思想の移り変わりをひもとく手がかりになると期待されています。”日本→NHK昭和の初め→電通支配国家主義的→反日偏向報道的日本新聞→朝日・毎日新聞etc

分かりやすいwww pic.twitter.com/yNbSbCgzAZ

— なんくらげ (@e1f7ikJ9RS7QB3F) August 8, 2019

放送内容は、当時の新聞のなかで日本新聞だけが翼賛姿勢だったという文脈ではなかったと思いますが。 https://t.co/cXOF7L3BKt

— tomtom (@tamtam5959) August 8, 2019

『日本新聞は、発行部数およそ1万6000部と多くはないものの、政官財に幅広い読者を持ち、戦前最大の右派メディアとして右派思想を広めたとされていましたが、現在は多くが失われ、初期の数年間については内容もほとんど知られていませんでした。』
NHKスペシャルの番組企画よろしく! https://t.co/0jWJj7kFJv

— TweetLoudProj (@TweetLoudProj) August 8, 2019

日本新聞だけが右派新聞ではないとの声もあがっていました。

日本新聞とは

戦前最大の右派メディア「日本新聞」。多くが失われたとされていたが、今回、新たに発見された。
新聞が発行されていたのは1925年からの11年間。社会から大正デモクラシーの自由主義的空気が消えていった時代でした。#NHKスペシャル#かくて“自由”は死せり 」
こんや10時です。 pic.twitter.com/DEFSbixdm9

— NHKスペシャル公式 (@nhk_n_sp) August 12, 2019

日本新聞は、1889年(明治22年)2月11日から、1914年(大正3年)12月31日まであった日刊新聞でした。

☆事業者 日本新聞社 ☆本社 (東京府東京市日本橋区蛎殻町) 東京市神田区雉子町32番地 ☆代表者 陸羯南 伊藤欽亮 ☆創刊 1889年(明治22年)2月11日 ☆廃刊 1914年(大正3年)12月31日 ☆前身 商業電報 (1886年-1888年4月) 東京電報

(1888年4月9日-1889年2月9日)

1906年(明治39年)時事新報から日本銀行への職歴を持つ伊藤欽亮が社長に就任すると、新聞『日本』は性格を変え、立憲政友会からの支援を受けた保守系新聞になります。

1914年(大正3年)末、東京・神田雉子町の日本新聞社社屋が火事で焼失、事業継続が不可能になって初代『日本』紙は廃刊しました。

その後は小川平吉らが後援して「日本新聞」の名前を残しながら日本主義を主張する新聞は続き、1927年(昭和2年)に慶應義塾大学教授の若宮卯之助が編集顧問兼主筆に就任すると、原理日本社と持ちつ持たれつの関係となり、超国家主義を主張するようになっていきました。

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